幼少期
亀山市に笠井家次男として誕生。
保育園時代はいつもやんちゃ坊主で親父に怒られていました。
保育園では砂場遊び、家では粘土/ブロック/お菓子の箱などを材料にして工作する事が大好きでした。
将来の夢は「内閣総理大臣」と書いていました。
両親に子供の頃の自分のことを聞くととにかく頑固な子供だったそうです。
「啓次は絶対に謝らんかった」との事です。
大学時代の友人にも「見た目マイルドだけど頑固」っていわれていた気がします 。
今はそんなこと無いと思いますが・・・。
保育園児のとき兄の遠足に連れて行ってもらう条件としておねだりをしないという約束をしました。
これを機に大人になるまで両親に欲しいものをストレートに「買って!」とおねだりすることができなくなりました。欲しいものを欲しいって言ってはいけないと思っていました。
祖父にはおねだりしましたが・・・。
今思えば、何故かいつも自分の周りにはリッチな友達がいて、その友達が大抵の流行もののおもちゃを持っていたので遊ぶ道具には不自由しませんでしたが、いつか欲しいものは必ず自分で手に入れてやる!って小さいながらに野心を持っていました。
小学生時代
小学生になってからは外では近所の子供たちと走り回り、家では2歳年上の兄といつも一緒に遊んでいました。
勉強する習慣は無く、宿題もやりませんでした。
宿題をやっていないという理由でよく小学校の先生に拳骨で殴られていました。
それでも子供の頃から1度も親に勉強しなさい!と言われたことがありませんでした。
悪気は無いのですが、学校のガラスを割ってしまったり、カーテン壊してしまったり叱られることばかりでした。当然勉強も出来ませんでした。
家で勉強したり、試験に備えて家で練習するということを全くしなかったため、成績もよくありませんでした。
中でも音楽は特に苦手で、笛のテストは何十回も再試験を受けました。何回試験を受けてもうまくできませんでした。
最後の試験の時に音楽の先生から「優秀なお兄さんの爪の垢を煎じて飲みなさい!」と叱られたことを今でも覚えています。
唯一の取り柄は走るのが速かったことです。運動会の徒競走だけはずっと1等賞でした。
朝の登校は誰よりも遅く、走ってみんなに追いついてぎりぎりセーフ。
下校は友達と遊ぶために誰よりも早く走って帰っていました。
夕方までは近所の子供たちといっしょにかくれんぼ/鬼ごっこ/ローラースケートなどをして、家に帰ると工作や裁縫をしていましたので図工の時間だけはヒーローでした。
当時好きだったテレビ番組は「明日のジョー」。
夕方テレビが終わると、矢吹ジョーの様に夕方ジョギングに出かけ、暗くなるとボクシングのグローブを母からもらった布を縫い合わせて自作していました。
工作好きは完全に親父の日曜大工好きを引き継いでいます。
鉄骨の溶接を初めて経験したのも小学校4年生のときでした。
実家の倉庫を親父が自作しているのをじっと見ていて、やってみるか?の一言に「待ってました〜!」とチャレンジ。
見よう見まねですぐにできた記憶があります。
笠井家は代々、小さい農家。
父親は四日市のコンビナートで働くサラリーマンでしたが兼業農家でしたので休日には田んぼ/畑で作業することもありました。
夏休みはビニールハウスにて作物に水やりのお手伝いをしていました。
小学生時代〜魚釣りの毎日〜
1年365日のうち360日魚釣りに行きました。
小学校高学年になると、魚釣りにのめり込み毎日の様に魚釣りにでかけました。
最初は魚を釣るのが面白かったのですが、いつの間にか釣り竿を作ったり、ルアーを作ったりする事の方が楽しくなっていました。
山で竹を取って来てお店に売っている釣り竿を真似て色々作りました。
中学時代
中学生になるとテニス部に入り兄と一緒にテニスをしました。
割と上達は早く2年生からレギュラーになりました。地区大会では優勝することもありました。
あとテニス部と同時に選抜メンバーで構成される学校対抗の駅伝大会を頑張っていました。
3年生の時には区間賞&チームの優勝を勝ち取りました。
(駅伝に関しましては中学2年生の時、Bチームの担当をしてくださった小澤先生(現在大木中学の体育教師)に「笠井、お前ならできる」と駅伝の伴走のときに励ましてくださったあの言葉が、それ以降駅伝大会、その他陸上大会で勝利を収める原動力となりました。コーチの一言は本当に重みがありました。自分はできる!と信じることの大切さを思い知りました。Yes,you can!)
中学3年生となり、夏の大会で周囲はクラブ活動を卒業して本格的に受験勉強に向かっているなか、秋になっても周りの友達が授業終了後、受験に向けて足早に塾へ向かう中、グラウンドで日が暮れるまで陸上のトレーニングを積んでいました。
でも受験をあきらめていた訳でなく、成績は伴っていなかったものの、自分が地元一の進学校に自分が行くことを信じていました。
中学3年生の冬、無事駅伝大会で優勝。
その後、駅伝のラストスパートのような猛烈ダッシュで成績急上昇。
中学1年生の時最下位にかぎりなく近かった英語の成績も最後は学年1等賞。
中学3年生終盤になって初めて優等生の仲間入り。
思い返せば、入学当初はテストの日の朝にも魚釣りにいっていて全く勉強していませんでした。試験よりも大きな魚が釣れたことに大喜びで浮かれて登校し教室に入るなり同級生がみんな試験勉強をしているのをみてびっくりしていました。
中学時代の大半において成績はかなり低空飛行していたのですが、最後は気合いと根性にて無事、地元進学校・津高校に合格。
高校時代
自由な校風を売り物にしていた津高校。学生達をあまり縛り付けることはしませんでした。
結果、進路指導・補講を一生懸命行っていた姉妹校・津西高校と違い3年間の学生生活を終えてみるとそこには浪人生の人だかり。
僕も卒後はストレートで代々木ゼミナールに入学し浪人生活を送りました。
(それでも、津高校の学生の自主性に任せるという校風はとても良かったと感謝しています。浪人については、所詮浪人は浪人。いい経験だなんて都合の良い言い訳だと思っています。)
高校時代で一番印象に残っていることは、テニス部で一緒だった同級生(滝本君)の勝負に対する姿勢です。
テニスが下手でめちゃくちゃかっこ悪いにもかかわらず勝負に対しては物凄く真剣でした。
強い玉は打てないし、サーブもしょぼい。スマッシュもかっこ悪い。ふにゃふにゃのボールを打っておいて相手に打たせる。そして拾う。ヤジる「さー打って来い!」そんなこと繰り返しているうちに相手は疲れて嫌になる。ヤジに切れる人もいる。そんなカッコ悪い方法でも彼は県大会出場まで成し遂げました。
ヤジることが良いことであるわけではないですが、それでもあの勝利への執念は今まで見たことがなかったです。
でも彼のその姿が僕を大きく変えました。なんとしても勝たなくっちゃ。違法は良くない。絶対合法でないといけないけれど絶対に勝たなければいけない。そこには感動があるから。
勉強面では、高校1年生の初めてのテストにて予想外の高得点そして3者面談。
「これならば医学部でも行けますね。」先生のこの一言が僕の人生を変えました。
自分が医者???これは面白い。それ以降ずっと模擬試験の時には医学部志望と書き続けました。
しかし成績は伸びなかったです。中学の時のような、短期間の踏ん張りでは効果が出ませんでした。
その後低空飛行を続け浪人生へと続くわけですが、高校3年生の時、歯医者の父を持つ同級生が「歯医者ええで!」と耳元でささやいてから歯学部に志望変更。
さらに、近所の姉ちゃんの歯科衛生士をやっている友人から「私が勤務している歯科医院の院長先生ポルシェとベンツに乗っている!」ということを聞きサラリーマンの息子である僕にとって衝撃でした。
子供のときから欲しいものを親に買って欲しいと言えなかった僕は物質的に満たされていないというコンプレックスをずっと持っていました。
高校時代、制服のない学校でしたので、服装において貧富の差を感じていました。自分はいつも同じような見栄えのしない服装でした。リッチな友達は当時全盛だったDCブランドに身を包んでいました。
今思えば大したことではないですが、バカな先輩から「なんでお前いつもおんなじジャージ着ているの?」とからかわれ、とても傷ついたことを覚えています。いつか自分の力で欲しいものは手に入れてやる!って心に決めました。
高校時代は背が低いこと、足があまり長くないこと、目が一重であること顔が大きいことなどコンプレックスを多く抱えていました。
大学時代
大学に入ってからも金持ち組と貧乏組になんとなく分かれていた気がします。
金持ち組は入学祝に車買ってもらっていました。
あと、おしゃれなフローリングのマンション住まい。貧乏人のひがみ根性で、それ以来国産T社とかH社などの国産車が嫌いになりました。初めて自分で買った車は独産のB社の中古車でした。
何はともあれ貧乏からの脱却・・・。
これが歯科医を志した一番の理由だと思います。
あと子供のころからいつも粘土・ブロック・紙切れ使っての工作などなど物を作ることが大好きであることです。
今も歯医者の仕事が好きなのは工作が大好きだからです。
予備校時代
高校時代、自分なりには全力で勉強していたつもりでしたが、成績は空回り。
取りあえず、現役時代某大学の経済学部には合格したものの歯学部を目指して浪人生活へ。保育園時代から高校時代まで毎年正月に親戚のおじさんおばさんから頂いたお年玉貯金をすべて予備校の入学金にまわしました。欲しいものも我慢して貯めた貯金が予備校へ、、、。
さすがに気合いが入りました。
実際に予備校に入学してみると、講師の先生方の授業がとても面白い事に驚きました。教えるのが本当にうまいのです。
勉強ができなかったのは自分の性でもあったかも知れませんが、やはり、教えるのが上手い人に習う事はとても大事だと心の底から思いました。
ある予備校講師の先生が自分自身の給料について話していた事があるのですが、月給が100万円以上あるという内容でした。サラリーマン家庭に育った私に取ってそれは衝撃でした。
1ヶ月に100万円???
そんな人いるんだ!
給料も凄いと思いましたが、授業がとにかく面白いと思いました。
数学と地理はとくに面白かったです。数学ってなんて美しいんだ!!!と感激しました。
後にこの予備校時代に受けた講義をもとに家庭教師の仕事で大活躍。
そういえば、予備校時代は田植えのお手伝いしてたな〜〜〜。
院長笠井はお金持ちの家庭のお坊ちゃんと思われがちですが、すごく普通の兼業農家の息子です。
サーファーの歯医者さん宮本先生との出会い
・・・人生はサーフィンだ
波が来たら乗れ!!!
徳島大学に勤務されていた宮本先生のもとに卒後2年目週1回医院見学・勉強に通わせていただいていました。
宮本先生は高精度な治療を行ってみえて、当時の僕はあまり見たことのない治療をいろいろ行って見えました。
初対面の時「先生は神とは何だと思う?」という返答に困る質問をされたことを覚えています。
僕にはついていけない世界もお持ちですが、それはさておき、宮本先生がおっしゃっておられたのは、人生の波にうまく乗りなさい。サーフィンも、波が来ていないときには立つことができないように人生も同じだと。今がBig Waveと感じたら、立ちなさい!それに備えて準備もしっかりしておきなさいと。あと別れ際に浪人・留年を経験している僕に対して、「先生は2年遅れだ。世間の人は浪人も人生の良い経験だというかもしれないが、違う。2年遅れだ。どこかで巻き返しなさい。」と言われました。
最後の手紙には「歯医者は職人に徹しなさい。しっかり勉強。謙虚にがんばりなさい。」と書かれていました。
その教えを守り、48歳になった今も勉強を続けています!
青年実業家・宮田さんとの出会い
人生:時間・お金・健康のバランスがとれて幸せ。
研修医1年目に出会った宮田さん。
学生時代には自分の周りにはいなかったタイプの方でした。
とにかく金銭感覚が貧乏研修医とは全く違いました。
社会人1年目の自分に人生において大切な事をいっぱい教えて頂きました。
森川先生との出会い
彼無しでは今の自分はありえない。
プラス思考・強くやさしい男。ハートは熱い。僕の人生をかなり大きく変えた先輩です。
人生道がなければ作ればよい。
彼からこんな言葉を直接聞いたことはありませんが、最強の開拓者です。間違いなく日本を変える男です。
父との関係
子供の頃はとんでもなく怖い親父でした。よく外に放り出されました。(親父が弱ってきたら外に放り出してやろうと思いますが。笑。)押入れに入れられたりもしました。
でも休日には僕たちを連れて遊びに連れて行ってくれていました。60歳手前まで家族のために四日市でがんばって働いてくれました。
退職まであとわずかというある日、「早めに会社を退職しようかな?」と言った親父をすかさず大木歯科医院のスタッフに勧誘しました。
サラリーマンを卒業した親父と共に大木歯科医院を始めました。
退職後楽させてあげることは出来ないのですが、世間から、そしてみんなから必要とされているという最高の満足感を十二分に感じてもらっていると思います。多分ですが・・・。
ギタリスト、求音堂さんとの出会い
地方国立大を卒業し、歯科医師国家試験をパスしたものの、なんの面白みもない僕に命を吹き込んでくれた人物です。
詫間との出会い
出会いは大学の講義の休憩時間、「XのニューアルバムBlue Blood買ったので、夜うちに遊びに来ない?」という彼の誘いから僕の人生は大きく、大きく方向チェンジしました。
夜、遊びに行って音楽が好きな事、バンドをやりたい事を話しました。
「俺たちと一緒にバンドやろう!テニス部辞めてこいよ。」
今まで、途中で何かを辞めるという経験が無かった私は、とても複雑な気持ちでした。
でも、バンドやってみたい!
結局、テニス部を1年生いっぱいで卒業しバンド活動へ。
毎日、深夜まで音楽を聴きながらドライブ。そしてスタジオで練習。バイトと音楽に明け暮れる日々。
彼と一緒に遊び回る日々は本当に新鮮で楽しかったです。
恩師・西野教授との出会い
『青年よ 大きな木になれ その下に 多くの人が集えるように!』
これが本当の大木歯科医院 の命名の由来です。
開業前に研修医時代の恩師 西野教授から頂いた手紙の中にこの文章が書かれていました。
この文中の「大きい木」から大木歯科医院 という名前に決定しました。
歯科医師としての基本姿勢は西野教授から学びました。正直な所、厳しい先生でした。
あまり仕事ができない私には、ほとんど仕事がまわってきませんでした。
同期入局のメンバーが優秀でしたのでいつも助けてもらっていました。
中国に検診に連れて行って頂いたり、ホノルルマラソンに出場するチャンスを頂いたりと学生時代には無かった体験を多くさせて頂きました。
『患者様が先生です』患者様と向かい合っておつきあいの中で多くの事を学ばせて頂くというスタンスは西野教授から教えて頂きました。
『強くなければ優しくなれない!』真の優しさを発揮するためには、自分自身の強さが必要だと。
『健康な歯は子供さんへの何よりの贈り物』お金よりもなによりも健康/健康の源である健康な歯を子供さんにプレゼントしてあげる事で、お子さんに健康だけでなく将来の時間とお金の節約になります。
勤務医時代の挫折
大学での臨床研修を終え、先輩の紹介で愛知県の稲沢と緑区に分院を持つ開業医に勤務することになりました。
悩みながらも就職をしようと決めたのは、複数人の勤務医がいたので、おそらくそんなに大ハズレはないだろうという理由でした。
とにかく当時情報がなく、先輩からのわずかな情報をもとに就職先探しをしなければなりませんでした。今の自分なら瞬時に医院のレベルを計り知ることができますが、遠方から何度も見学に出向くこともなかなか難しいと考えていたため、1日見学しただけで判断したのがまずかった、、、。
勤務初日、これまで大学教育の中で、できる限り歯を抜かずに残しましょう!できる限り歯を削らずに低侵襲な治療を行いましょうと教えられてきたにも関わらず、そこには明らかに今までとは違う世界がありました。
これが開業医か、、、。
残せそうな歯も抜いてしまう。
それほど削らなくても良い歯を削ってしまう。
滅菌消毒もラフ、、。
大学時代に行っていた十分な説明も成されるはずもなく、これが開業医か、、。
医院見学の時にご馳走になったリッチな夕食とは裏腹に、ちょっと残念な診療。
これが開業医の現実か?生きていくために誰かを踏み台にしていくっていうのが社会か?
こんな洗礼を受けつつも、退職しなかったのは、結婚を前提に家内を地元に連れて帰ってきたという状況だったからです。
家内も慣れない地に一人で来て新しい職場で内科医としての研修を積み頑張っている姿を見ていたので、自分だけ辞めた!なんてとても言えませんでした。
また、勤務医時代からずっと仲良くしていただいてきた先輩らに対しても、周りの環境が良くなかったから自分は頑張れていないなんてそんなカッコ悪いことを死んでも言いたくありませんでした。
どこからでも這い上がっていく!
子供時代から見てきたアニメのヒーローのように自分はリスクを取ってでも強くて優しい真のヒーローのような歯科医師になりたい!
愚痴っている男なんて超カッコ悪い。
いい人のフリでもなく、ヒーロー気取りでもなく本物の強くて優しいヒーローになりたい!
そして、どうすれば嘘がなく患者にもスタッフにも愛される真のリッチな歯科医師になれるのか???
そんな思いでどんな歯科医院を作るのか?
ひたすらオリジナルのアイデアにこだわりながら、 今までにない歯科医院創りコンセプトを勤務1日目から構想し始めました。
人に不利益を与えてでも自分さえリッチに慣ればそれでいい!?
そんなのは自分が思い描く開業医じゃない!
一人孤独に創造の日々は続きました。
自分自身の持つ想像力で日本の歯科界のメジャー(常識)を変える!
(当時、X JAPAN Yoshikiさんが日本の音楽界のメジャーを変える!といってみえたので、それに倣って発想しました。実際に日本の音楽界はいろんな意味で変わりました。当時テレビ業界からは敬遠されてた過激なロックミュージックをテレビなどの音楽番組を通じて、お茶の間に浸透させたと思います。ビジュアル系と呼ばれる過激なファッション、ヘビーメタル、スラッシュメタル、ハードロックをお茶の間に持ち込んだ男が、私にとってお手本でした。)
理想を掲げるだけでなく、行動し続けました。
給料を矯正セミナーやインプラントセミナーそして医院経営セミナーの受講費に回し、現実には見たことないインプラント 矯正治療といった専門性を持ちながらも、研修医時代の先輩上司らのような組織のリーダーとして活躍するといった理想の歯科医師像を頭の中でイメージしながら日夜休日も頑張りました。
気がつけば、28歳の夏 貯金が3000円、、。
開業
2002年8月、開院に向けてはじめての求人採用。
求人広告を出す前から求人問い合わせがあり、実際に求人情報を公開したところ希望者多数。
その中から厳選された6名のメンバーとともに2002年9月2日、大木歯科医院は誕生しました。
予定よりも多く採用したために、それが自分自身へのプレッシャーとなっていましたが、開業に向けて一緒に頑張ってくれるメンバーを見て何となく力が湧いてくる気がしました。