院長の生い立ち

幼少期

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三重県亀山市に笠井家次男として誕生。

保育園時代はいつもやんちゃ坊主で親父に怒られていました。
保育園では砂場遊び、家では粘土/ブロック/お菓子の箱などを材料にして工作する事が大好きでした。

将来の夢は「内閣総理大臣」。
両親に子供の頃の自分のことを聞くととにかく頑固な子供だったそうです。
叱られても絶対に謝らない子供でした。(今は違います、、。)

大学時代の友人にも「見た目マイルドだけど頑固」っていわれていました 。
(今は素直、プラス思考、勉強好きプラス情熱家。)

保育園児のとき兄の遠足に連れて行ってもらう条件としておねだりをしないという約束をしました。
これを機に大人になるまで両親におねだりすることができなくなりました。
祖父にはおねだりしましたが・・・。

子供の頃から「いつか欲しいものは必ず自分の力で手に入れてやる!」と野心を持っていました。

小学生時代

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小学生になってからは外では近所の子供たちと走り回り、家では2歳年上の兄いつも一緒に遊んでいました。

サボっている感覚はなく、勉強する文化がありませんでしたので(おそらく)
宿題をやっていないという理由でよく小学校の先生に拳骨で殴られていました。
それでも子供の頃から1度も親に勉強しなさい!と言われたことがありませんでした。

悪気は無いのですが、学校のガラスを割ってしまったり、カーテン壊してしまったり叱られることばかりでした。家で勉強したり、試験に備えて家で練習するということを全くしなかったため、成績もよくありませんでした。

中でも音楽は特に苦手で、笛のテストは何十回も再試験を受けました。何回試験を受けてもうまくできませんでした。(現在は独学でギターピアノ弾きながら歌っています)
最後の試験の時に音楽の先生から「優秀なお兄さんの爪の垢を煎じて飲みなさい!」と叱られたことを今でも覚えています。

唯一の取り柄は走るのが速かったことです。運動会の徒競走だけはずっと1等賞でした。
朝の登校は誰よりも遅く、走ってみんなに追いついてぎりぎりセーフ。(全然自慢にならないですね、、、。)
下校は友達と遊ぶために誰よりも早く走って帰っていました。

夕方までは近所の子供たちといっしょにかくれんぼ/鬼ごっこ/ローラースケートなどをして遊び、家に帰ると工作や裁縫をすると言う日々を送っており、図工の時間だけはヒーローでした。

当時好きだったテレビ番組は「明日のジョー」。
夕方テレビが終わると、矢吹ジョーの様に夕方ジョギングに出かけ、日が暮れると母からもらった布を縫い合わせてボクシングのグローブを自作していました。
工作好きは完全に親父の日曜大工好きを引き継いでいます。

父の休日の日は大抵日曜大工のお手伝い。

鉄骨の溶接を初めて経験したのも小学校4年生のときでした。
実家の倉庫を親父が自作しているのをじっと見ていて、やってみるか?の一言に「待ってました〜!」とチャレンジ。
見よう見まねで鉄骨工デビューした記憶があります。

笠井家は代々、小さい農家。
父親は四日市のコンビナートで働くサラリーマンでしたが兼業農家でしたので休日には田んぼ/畑で作業することもありました。
夏休みはビニールハウスにて作物の水やりをしていました。

小学生時代〜魚釣りの毎日〜

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小学校6年生の時には1年365日のうち360日魚釣りに行きました。

最初は魚を釣るのが面白かったのですが、いつの間にか釣り竿を作ったり、ルアーを作ったりする事の方が楽しくなっていました。
魚釣りに行く前に、山で竹を取って来て釣り竿を作ってから魚釣りに出かける日々でした。

粘土で船を作ったり飛行機を作ったり紙細工プラモデルとにかく工作大好き!

中学時代

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中学生に入ってからも勉強を急に始めたわけでもありませんが、洋楽に興味を持ち毎週洋楽のヒットソングを解説してくれる子供向け新聞を見ているうちに、英語好きになりました。ちなみに初めての英語のテストは16点くらいで惨敗でした。

あと、部活動は兄の後を追うようにテニス部に入りました。
割と上達は早く2年生からレギュラーになりました。地区大会では優勝することもありました。

さらにテニス部と同時に選抜メンバーで構成される学校対抗の駅伝大会を頑張っていました。
3年生の時には区間賞&チームの優勝を勝ち取りました。
(駅伝に関しましては中学2年生の時、チームの担当をしてくださった恩師尾澤先生から「笠井、お前ならできる」と駅伝の伴走のときにありがたいお言葉をいただき、それが様々な陸上大会で勝利を収める原動力となりました。コーチの一言は本当に重みがありました。自分はできる!と信じることの大切さを思い知りました。Yes,you can!スタッフに対しても「あなたはできる!」というメッセージを今後も送り続けたいと思います。)

中学3年生となり、夏の大会をもって周りの同級生はクラブ活動を卒業して本格的に受験勉強に向かっているにも関わらず、私は秋の駅伝大会に向け日が暮れるまで孤独にグラウンドでトレーニングを積んでいました。
決して受験をあきらめていた訳でなく、成績は伴っていなかったものの、自分は文武両道を成し遂げて兄を追って地元一の進学校に自分が行くことを信じて運動で疲れ切った状態で帰宅してからも勉強頑張りました。

(ギリギリで頑張っている自分が好きになりました。)

中学3年生の冬、無事駅伝大会で優勝。
その後、駅伝のラストスパートのような猛烈ダッシュで成績急上昇。
中学1年生の時最下位にかぎりなく近かった英語の成績も最後は学年1等賞。
中学3年生終盤になって人生初の優等生の仲間入り。

思い返せば、入学当初はテストの日の朝にも魚釣りにいっていて全く勉強しておらず、試験よりも大きな魚が釣れたことに大喜びで浮かれているような状況でしたが、卒業間際には気合いと根性にて無事、地元進学校・津高校に合格。

高校時代

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自由な校風を売り物にしていた津高校。学生達をあまり縛り付けることはしませんでした。3年間の学生生活を終えてみると周りは浪人生で溢れかえっていました。僕も卒後はストレートで代々木ゼミナールに入学し浪人生活を送りました。
(それでも、津高校の学生の自主性に任せるという校風はとても良かったと感謝しています。)高校時代で一番印象に残っていることは、テニス部で一緒だった同級生(滝本君)の勝負に対する姿勢です。
テニスが下手でめちゃくちゃかっこ悪いにもかかわらず勝負に対しては物凄く真剣な彼の存在は衝撃的でした。
強い玉は打てないし、サーブもおそい。スマッシュもかっこ悪い。ふにゃふにゃのボールを打っておいて相手に打たせる。そして拾う。ヤジる「さー打って来い!」そんなこと繰り返しているうちに相手は疲れて嫌になる。ヤジに切れる人もいる。そんなカッコ悪い方法でも彼は県大会出場まで成し遂げました。
ヤジることが良いことであるわけではないですが、それでもあの勝利への執念は今まで見たことがなかったです。
でも彼のその姿は本当に衝撃的でした。なんとしても勝たなくっちゃ。違法はダメですが、絶対に勝たなければいけない。そこには感動があるから。

勉強面では、高校1年生の初めてのテストにて予想外の高得点そして3者面談。
「これならば医学部でも行けますね。」先生のこの一言が僕の人生を変えました。
自分が医者???そんなこと1ミリも考えたことなかったです。これは面白い!!!もしも自分がお医者さんになったなら!???面白い。ありえない!!!それ以降ずっと模擬試験の志望校の欄には医学部志望と書き続けました。
しかし成績は伸びなかったです。中学の時のような、短期間の踏ん張りでは効果が出ませんでした。

その後、がんばっているつもりでも空回り、低空飛行を続け浪人生へと続きました。高校3年生のある日、歯医者の父を持つ同級生が「歯医者ええで!」と耳元で囁きました。急遽、歯学部に志望変更。
さらに、近所の姉ちゃんの歯科衛生士をやっている友人から「私が勤務している歯科医院の院長先生ポルシェとベンツに乗っている!」ということを聞きサラリーマンの息子である僕にとって衝撃でした。

そうか、歯医者なら工作も出来るし、ブラックジャックみたいに治療できそうだし、お金持ちにもなれそうだ!

と考えました。

子供のときから欲しいものを親に買って欲しいと言えなかった僕は物質的な豊かさに憧れていました。
(高校時代、制服のない学校でしたので、正直なところ、服装において貧富の差をとても感じていました。自分はいつも見栄えのしない同じような服装で通学していました。リッチな友達は当時全盛だったDCブランドに身を包んでいました。
今思えば大したことではないですが、バカな先輩から「なんでお前いつもおんなじジャージ着ているの?」とからかわれ、とても傷ついたことを覚えています。いつか自分の力で欲しいものは買えるようになろう!と決めました。

高校時代は背が低いこと、足があまり長くないこと、目が一重であること顔が大きいことなどとにかくコンプレックスの塊でした。

予備校時代

高校時代、自分なりには全力で勉強していたつもりでしたが、成績は空回り。

取りあえず、現役時代某大学の経済学部には合格したものの歯学部を目指して浪人生活へ。保育園時代から高校時代まで毎年正月に親戚のおじさんおばさんから頂いたお年玉貯金をすべて予備校の入学金にまわしました。欲しいものも我慢して貯めた貯金が予備校へ、、、。
さすがに気合いが入りました。

実際に予備校に入学してみると、講師の先生方の授業がとても面白い事に驚きました。教えるのが本当にうまいのです。
勉強ができなかったのは自分の性でもあったかも知れませんが、やはり、教えるのが上手い人に習う事はとても大事だと心の底から思いました。

ある予備校講師の先生が自分自身の給料について話していた事があるのですが、月給が100万円以上あるという内容でした。サラリーマン家庭に育った私に取ってそれは衝撃でした。

1ヶ月に100万円???
そんな人いるんだ!

給料も凄いと思いましたが、授業がとにかく面白いと思いました。
数学と地理はとくに面白かったです。数学ってなんて美しいんだ!!!と感激しました。
後にこの予備校時代に受けた講義をもとに家庭教師の仕事で大活躍。

そういえば、予備校時代は田植えのお手伝いしてたな〜〜〜。

毎年ゴールデンウィークを迎える度に浪人時代の田植えを思いまします。

院長笠井はお金持ちの家庭のお坊ちゃんと思われがちですが、すごく普通の兼業農家の息子です

大学時代

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徳島大学歯学部は私が医療の世界に進むための希望の光でした。

サラリーマン家庭に育った私が医療の道に進むためには絶対に国立である必要がありました。

そこに行けば〜どんな夢もかなうというよ〜♪そう信じて、不安と期待いっぱいで単身徳島に向かいました。

古いお好み焼き屋の2階のアパートで徳島生活が始まりました。

家賃12000円。
今思うと結構リーズナブル。

ただ初めての一人暮らしは楽し過ぎました。

大学に入ってからも金持ち組と貧乏組になんとなく分かれていた気がします。
リッチチームは入学祝に車買ってもらっていました。
あと、おしゃれなフローリングのマンション住まい。

当時流行っていた国産スポーツカーが羨まし過ぎました。

(ちなみに、その反動で、社会人になってから、初期は国産T社とかH社などの国産車から距離をおいていました。ちなみに初めて自分で買った車は独産のB社の中古車。)

大学1年の時は体育会系テニス部に入り、先輩からは「お前らテニスのために生きろ!」とげきを飛ばされておりました。

1年生でなんとかレギュラーになろうとがんばりましたが、残念ながら先輩に負けてしまい大泣き。

ちょうどその時友人からバンド活動の誘いがあり、2年目から医学部の軽音楽部に入部。

これが私の人生最大の変曲点。

音楽活動とアルバイトに明け暮れる日々でした。

歯学部に入ればモテると確信していたにも関わらず、鳴かず飛ばずの毎日。

ところが音楽活動を始めた途端風向きが変わりました。

人生初のモテ期。

とはいうものの、歯学部は毎年進級試験が厳しく、2年目にして早くも落第。地の底まで落ち込んでしまいました。浪人に留年。自分大丈夫かな???

それ以降、毎年進級テストに怯え続ける日々が続きました。

ただ、ちょうどその頃現在の家内が後輩として入部。

家内からの猛烈なアタックによりお付き合いが始まりました。

貧乏学生でしたのでいつも後輩であった家内にいろいろお世話になりました。

めちゃくちゃリッチな家庭というわけではありませんが、家内の方がちょっとリッチでしたので甘えさせていただきました。

父から「お前はヒモか?」と言われる始末。

この場をお借りして感謝申し上げます(笑)。

軽音楽部に入って本当に良かったと思います。

ちなみに当時勉強机をいただいた部活の先輩が現在日本で一番矯正治療を手掛けている方です。

サーファーの歯医者さん宮本先生との出会い

・・・人生はサーフィンだ
波が来たら乗れ!!!

徳島大学に勤務されていた宮本先生のもとに卒後2年目週1回医院見学・勉強に通わせていただいていました。
宮本先生は高精度な治療を行ってみえて、当時の僕はあまり見たことのない治療をいろいろ行って見えました。

初対面の時「先生は神とは何だと思う?」という返答に困る質問をされたことを覚えています。
僕にはついていけない世界もお持ちですが、それはさておき、宮本先生がおっしゃっておられたのは、人生の波にうまく乗りなさい。サーフィンも、波が来ていないときには立つことができないように人生も同じだと。今がBig Waveと感じたら、立ちなさい!それに備えて準備もしっかりしておきなさいと。チャンスをものにできるのは普段から準備していた人だ!あと別れ際に浪人・留年を経験している僕に対して、「先生は2年遅れだ。世間の人は浪人も人生の良い経験だというかもしれないが、違う。2年遅れだ。どこかで巻き返しなさい。」と言われました。
最後の手紙には「歯医者は職人に徹しなさい。しっかり勉強。謙虚にがんばりなさい。」と書かれていました。

その教えを守り、51歳になった今も勉強を続けています!

青年実業家・宮田さんとの出会い

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人生:時間・お金・健康のバランスがとれて幸せ。

研修医1年目に出会った実業家宮田さん。
学生時代には自分の周りにはいなかったタイプの方でした。
とにかく金銭感覚が貧乏研修医とは全く違いました。
社会人1年目の自分に人生において大切な事をいっぱい教えて頂きました。

森川先生との出会い

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彼無しでは今の自分はありえない。

プラス思考・強くやさしい男。ハートは熱い。僕の人生をかなり大きく変えた先輩です。

人生道がなければ作ればよい。
彼からこんな言葉を直接聞いたことはありませんが、最強の開拓者です。間違いなく日本を変える男です。

父との関係

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子供の頃はとんでもなく怖い親父でした。よく外に放り出されました。押入れに入れられたりもしました。
でも休日には僕たちを連れて遊びに連れて行ってくれていました。60歳手前まで家族のために四日市でがんばって働いてくれました。

退職まであとわずかというある日、「早めに会社を退職しようかな?」と言った親父をすかさず大木歯科医院のスタッフに勧誘しました。
サラリーマンを卒業した親父と共に大木歯科医院を始めました。正直なところ開業当初は、父親が歯科医師である同級生がとても羨ましかったですが、実際はとてつもない活躍をしてくれている父に本当に感謝です。乗り越えれないはずの壁をいくつも乗り越えていく姿は本当に凄いです!!!正直ここまで期待していなかったので、情熱の大切さを痛感しています。

退職後楽させてあげることは出来ないのですが、世間から、そしてみんなから必要とされているという最高の満足感を十二分に感じてもらっていると嬉しいです。

ギタリスト、求音堂さんとの出会い

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地方国立大を卒業し、歯科医師国家試験をパスしたものの、なんの面白みもない僕に命を吹き込んでくれた人物です。

彼との出会いがなければ、現在の自分はいませんでした。

詫間との出会い

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出会いは大学の講義の休憩時間、「XのニューアルバムBlue Blood買ったので、夜うちに遊びに来ない?」という彼の誘いから僕の人生は大きく、大きく方向チェンジしました。

夜、遊びに行って音楽が好きな事、バンドをやりたい事を話しました。
「俺たちと一緒にバンドやろう!テニス部辞めてこいよ。」
今まで、途中で何かを辞めるという経験が無かった私は、とても複雑な気持ちでした。

でも、バンドやってみたい!

結局、テニス部を1年生いっぱいで卒業しバンド活動へ。
毎日、深夜まで音楽を聴きながらドライブ。そしてスタジオで練習。バイトと音楽に明け暮れる日々。
彼と一緒に遊び回る日々は本当に新鮮で楽しかったです。
現在も彼の勇気と行動力には度肝を抜かれます。

恩師・西野教授との出会い

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『大きな木になれ 青年よ その下に 多くの人が集えるように!』

これが本当の大木歯科医院 の命名の由来です。
開業前に研修医時代の恩師 西野教授から頂いた手紙の中にこの文章が書かれていました。
この文中の「大きい木」から大木歯科医院 という名前に決定しました。

歯科医師としての基本姿勢は西野教授から学びました。正直な所、厳しい先生でした。
あまり仕事ができない私には、ほとんど仕事がまわってきませんでした。
同期入局のメンバーが優秀でしたのでいつも助けてもらっていました。

中国に検診に連れて行って頂いたり、ホノルルマラソンに出場するチャンスを頂いたりと学生時代には無かった体験を多くさせて頂きました。
『患者様が先生です』患者様と向かい合っておつきあいの中で多くの事を学ばせて頂くというスタンスは西野教授から教えて頂きました。
『強くなければ優しくなれない!』真の優しさを発揮するためには、自分自身の強さが必要だと。
『健康な歯は子供さんへの何よりの贈り物』お金よりもなによりも健康/健康の源である健康な歯を子供さんにプレゼントしてあげる事で、お子さんに健康だけでなく将来の時間とお金の節約になります。数多くの名言が心に突き刺さりました。ありがとうございます。

卒直後の2年間、小児歯科学講座にてお世話になっていたために、虫歯の多い子供さん保護者に対して現在も虫歯予防を熱く語っています。

勤務医時代の挫折

大学での臨床研修を終え、先輩の紹介で愛知県の稲沢と緑区に分院を持つ開業医に勤務することになりました。
悩みながらも就職をしようと決めたのは、複数人の勤務医がいたので、おそらくそんなに大ハズレはないだろうという理由でした。
とにかく当時情報がなく、先輩からのわずかな情報をもとに就職先探しをしなければなりませんでした。今の自分なら瞬時に医院のレベルを計り知ることができますが、遠方から何度も見学に出向くこともなかなか難しいと考えていたため、1日見学しただけで判断したのがまずかった、、、。
勤務初日、これまで大学教育の中で、できる限り歯を抜かずに残しましょう!できる限り歯を削らずに低侵襲な治療を行いましょうと教えられてきたにも関わらず、そこには明らかに今までとは違う世界がありました。
これが開業医か、、、。
残せそうな歯も抜いてしまう。
それほど削らなくても良い歯を削ってしまう。
滅菌消毒もラフ、、。
大学時代に行っていた十分な説明も成されるはずもなく、これが開業医か、、。

医院見学の時にご馳走になったリッチな夕食とは裏腹に、ちょっと残念な診療。

これが開業医の現実か?生きていくために誰かを踏み台にしていくっていうのが社会か?

スタッフにはあんまり関わらないほうがいいよ。

医療をマネーゲームにしか見ていない、、。

こんな洗礼を受けつつも、退職しなかったのは、結婚を前提に家内を地元に連れて帰ってきたという状況だったからです。
家内も慣れない地に一人で来て新しい職場で内科医としての研修を積み頑張っている姿を見ていたので、自分だけ辞めた!なんてとても言えませんでした。

また、徳島での勤務医時代からずっと仲良くしていただいてきた先輩らに対しても、周りの環境が良くなかったから自分は頑張れていないなんてそんなカッコ悪いことを死んでも言いたくありませんでした。
どこからでも這い上がっていく!
子供時代から見てきたアニメのヒーローのように自分はリスクを取ってでも強くて優しい真のヒーローのような歯科医師になりたい!
愚痴っている男なんて超カッコ悪い。
いい人のフリでもなく、ヒーロー気取りでもなく本物の強くて優しいヒーローになりたい!強くなりたい!優しくなりたい!
そして、どうすれば嘘がなく患者にもスタッフにも愛される真のリッチな歯科医師になれるのか???

そんな思いでどんな歯科医院を作るのか?
ひたすらオリジナルのアイデアにこだわりながら、 今までにない歯科医院創りコンセプトを勤務1日目から構想し始めました。

人に不利益を与えてでも自分さえリッチに慣ればそれでいい!?
そんなのは自分が思い描く開業医じゃない!

一人孤独に創造の日々は続きました。

自分自身の持つ想像力で日本の歯科界のメジャー(常識)を変える!
(
当時、X JAPAN Yoshikiさんが日本の音楽界のメジャーを変える!といってみえたので、それに倣って発想しました。実際に日本の音楽界はいろんな意味で変わりました。当時テレビ業界からは敬遠されてた過激なロックミュージックをテレビなどの音楽番組を通じて、お茶の間に浸透させたと思います。ビジュアル系と呼ばれる過激なファッション、ヘビーメタル、スラッシュメタル、ハードロックをお茶の間に持ち込んだ男が、私にとってお手本でした。)
理想を掲げるだけでなく、行動し続けました。

給料を矯正セミナーやインプラントセミナーそして医院経営セミナーの受講費に回し、現実には見たことないインプラント 矯正治療といった専門性を持ちながらも、研修医時代の先輩上司らのような組織のリーダーとして活躍するといった理想の歯科医師像を頭の中でイメージしながら日夜休日も頑張りました。

気がつけば、28歳の夏 貯金が3000円、、。

(28歳全財産3000円弱の男性とみなさんは結婚できますか?笑)

身銭を切ってセミナー参加した結果です。

夢と希望と志だけが私のエネルギーでした。

開業

2002年8月、大木歯科医院の開院に向けてはじめての求人採用。
求人広告を出す前から求人問い合わせがあり、実際に求人情報を公開したところ希望者多数。
その中から厳選された6名のメンバーとともに2002年9月2日、大木歯科医院は誕生しました。

予定よりも多く採用したために、それが自分自身へのプレッシャーとなっていましたが、開業に向けて一緒に頑張ってくれるメンバーを見て何となく力が湧いてくる気がしました。

実際に開業してみて

勤務医時代に思い描いた幸せな歯科医師を目指して毎日18時間勤務、昼間は昼食を取ることもなく、家に帰ることなく、院長室に連日医院に泊まり込んで体が動く限界まで診療後もマネージメント業務に取り組む時期が5年ほどありました。(当然スタッフさんは帰っています)月曜日から土曜日まで6日間は朝から夜まで診療。日曜日は臨床系のセミナーに参加して新しい知識技術の習得に勤めていました(今も実は同じですが、、)。

忙し過ぎて食事もしない日々が続くとどんどん痩せ細っていくばかり。年に一度、内科医の家内に検診をしてもらっていますが、結果は、特に問題ないけれど、あえて言うと、栄養失調。ケトン体が検出されており、いわゆる飢餓状態です、、、。とのこと。飢餓状態の日本人、現代人には珍しいですよね!?

そこまでギリギリまで頑張っていたの(実は過去形ではない、、51歳になった現在も似たようなもの)はもっと理想の自分に、もっと理想の医院に近づきたい!!!という想いからです。臨床家としてももっと上手くなり、患者様にめちゃくちゃ喜んでもらいたいという職人のマインド、大きな医院の理事長ということで、患者様に対してもスタッフに対しても確実に成果をださなければならないという責任感、常にいろんなリスクと背中合わせというプレッシャーと付き合っています。

インプラントや矯正治療、さまざまな新しいデジタル機器を使いこなすためにはかなりの時間を要します。特にインプラント治療においては骨の移植などかなり専門性の高い部分にまで対応できるようになるために、28歳頃からいろんなセミナーに通い続けてきました。ありがたいことに多くの患者様にお越しいただけるようになりましたが、日々増えていく患者様に対応していくためにスタッフの採用を繰り返すうちに、院内のマネジメント業務の重要性が増すばかり。経営者としてのスキルも磨く必要性を痛感しました。

自分のイメージ通りに動いてくれないスタッフに対して腹を立てていた時代もありましたが、途中で、マインドを入れ替えて、自分自身を変えるということに取り組み始めました。

自分自身は限界ギリギリまで頑張っていたのは事実ですが、

よくよく考えると、相当忙しい医院の中で、本当に多くのスタッフが頑張ってくれている事に気づき始めました。

そこで、スタッフに対してお給料以外の価値をどれだけ与えてあげることができるだろうか?ということに目を向け始めました。

そこで、現在は結婚出産などのライフステージに合わせた働き方に対応できる仕組みづくりに加えて、仕事を通じて成長し、仕事もプライベートも成功できる歯科医院というのを目指しています。

これまでの医院運営の中で、幹部スタッフになると必ず良い彼が現れて、プライベートが充実するという経験を繰り返してきました。

人は立場で成長すると言われますが、自分が置かれた立場で物を考え発言し行動する中で、人格が磨かれ、その人格に見合ったパートナーが現れるという事であると気づきました。

近年はインプラントなどのセミナーなどでお話しさせていただくだけでなく、医院マネージメントセミナーでお話しさせていただく機会もいただいております。

現在

2021年現在

臨床家として経営者として多くの方に支えられ今日では「社会的財産になる」という医院理念に基づいて日々活動しております。

工作が好きとか、医療人への憧れとか、リッチになりたいとかそういう動機で始まった歯科医師人生ですが、臨床も経営も学ぶほど奥が深く面白いです。

臨床においてはインプラント・矯正治療・セラミック修復ホワイトニングをはじめとする審美補綴をデジタルを用いて行うということで、高い機能性と審美性の回復が可能となり、本当に診療は楽しいです。機能性と審美性の回復により日本国民に対して心と体の健康、すなわち健康寿命を提供することにつながると思います。

また、医院経営を通じて自分並びにスタッフが人間的に成長することにより視座、視点の高い人財、長期視点で物事を捉えて考えることのできる人財の育成につながり、将来的にはパートナーやその子供たちが大きな可能性を手にすることになります。

患者様とスタッフに対する貢献を通じて超少子高齢化を迎えた日本社会を支えるといった活動をしていきたいです。

あと、父として院長として成長し挑戦し続ける背中を今後も見せていきたいと思います。

今も時には思い通りにいかないこともありますが、壁にぶち当たった時は開業当初からGacktさんのDearsという曲の詩を聴きながら、不屈の精神で頑張っています。

たとえどんなに傷ついても どれだけ傷つくことになっても 誰にも僕は止められない

わずかな光を見つければいい 今は太陽があたらなくても

降り出した雨はいつか止むんだね

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